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 7.君のためになら

 

 
季節はおだやかに、空気を冷たい冬のそれへと変えていく。暖房を入れていないオフィスで、僕の口から淡く白い息がこぼれるのを見た。
コーヒーでもいれよう。あまりにも寒すぎて仕事にならない。
手をこすり合わせながら給湯室へ向かう途中で、何やら話し声が聞こえてきた。給湯室の裏側の、喫煙コーナーで誰かが電話で話をしているようだった。

「……うん、うん。わかった。大丈夫だから。な、心配すんなって。……ええ? いや…、そうじゃなくて…………」
痴話げんかでもしているのだろうか? 
やかんを火にかけ、インスタントコーヒーを見つけようと戸棚の中に目をすべらせながら、僕はこの声の主の正体に気づいた。
瀬川じゃないか。
てっきり別れたと思っていたが、彼女とよりでも戻したんだろうか。
僕にも彼女ができたせいか、他人の幸福を心から祝福してやれる気持ちが持てる。よかったな、瀬川。
「それじゃあ、そろそろ切るわ。心配なら、往復俺が一緒にいるからさ。うん、うん。じゃあ、夜にな。
………………俺も。…好きだよ」
聞いているこっちが恥ずかしくなってしまう程のラブコール。瀬川も普通に恋愛してるんだな。
僕は無性にユウリに会いたくなった。そういえば、まだ電話で話をしたことはなかったな。
一昨日の夜にかけてみた時はずっと不在だったし。
確か、30分おきにかけた。どうしてもつながらないので事故にでもあったのかと心配になって、メールと並行させて9時からはかっきり10分おきにかけた。
結局夜の6時から11時までの間にユウリが電話に出ることは一度もなかったわけだが、今朝会った時は無事だったので安心したものだ。
これは多分、ユウリなりの作戦なんだろうな。僕の気を引こうとして、心配させてみたんだろう。
可愛いユウリ。
そんなことしなくたって、僕の心はいつだって君だけにしか向いていないのに。

 シュンシュンと音を立てて、湯が沸いたとやかんが知らせてきた。
「おーっと遠藤ちゃーん! おっはようさーん!」
すぐ近くにいた奴の耳にも届いたらしく、とぼけた表情をした瀬川がひょこっと顔を覗かせた。
僕が電話を聞いていたことに気づいているようで、なんとも気恥ずかしそうな、しかし幸せそうな顔をしていた。
「おっ、コーヒー? 今日は暑いよなあ遠藤!」
「寒いよ。あっついのはお前と彼女だろう?」
からかう僕の言葉に、瀬川の切れ長の眼が思い切り垂れ下がったのを見て吹き出しそうになってしまった。
「なんとか別れずにすんだよ。お騒がせしました」
いつもの瀬川らしくない、かしこまった態度でぽつりと言われたことに驚いて瀬川の顔を覗きこむと、奴は子供のように下を出して笑っていた。
「よかったな」
「おう。おかげ様でな。彼女のな、他に好きな人ができたって話。あれ、俺の早とちりだったわ」
話を聞いて欲しかったんだろう。オフィスに戻る時間が近づいていたが、僕は瀬川の語るままにさせておいた。
普段の僕なら他人の色恋ごとなど興味はなかったが、ユウリがいる今はうまくやっていく秘訣のようなものを教えてもらえるのは、ありがたいことだから。
「最近さ、俺よく女の子の相談にのってたわけよ。俺の彼女、それが面白くなかったみたいでな。ケータイ見られちゃったんだよ、浮気だと思われて」
……どこかで似たような話を聞いたな。いつだったか………
「それでさ、俺は気づいてなかったんだけど、誤解されても仕方ない文面があったんだな。彼女ブチ切れまくったんだよ。今思い出しても怖いくらいな」
そう、ユウリだ。ユウリも同じような喧嘩をしたと言っていた。
もう、過去のことだけれど。今はユウリの隣には僕がいるから。
瀬川の話す言葉から僕の意識は離れ始めていたが、奴はまだ続けていた。
「売り言葉に買い言葉だったんだ。彼女には『あんたなんかより、あの人の方がずっと優しい!』って言われちまったんだ。誰だか知らないけど、それで彼女に好きな奴ができたって誤解したんだよ。馬鹿だな、俺」

瀬川は確かに馬鹿だ。自分の彼女を信頼できないなんて。
僕だったら、どうする?
そもそもユウリ以外の女なんか、相談にすら乗りたくない。
目の前でその女に絶縁を言い渡すことすら平気だよ。ユウリが僕にやきもちを妬いてくれるなんて最高じゃないか。
瀬川は本当に彼女のことを愛しているのか?
少なくとも、僕のユウリに対する想いには露ほどもかなわないだろうな。

 瀬川は時間などお構いなしに語り続ける。
「……もう別れるんだって思ったら何もかもどうでもよくなって、件の女の子に電話で愚痴ってたらさ、彼女が謝りに来た。俺、変にテンションがあがっちまってさ…… 追い返しちまったんだよ。酷いことをたくさん言った。
彼女がいなくなってから、ものすごく後悔してさ………謝り倒してようやく許してもらえた」
「………そうか。もう終わってしまったことだから言っても仕方ないけど、馬鹿だなお前」
僕の罵りの言葉に細く笑顔を返す瀬川の顔は、以前より少し優しく見えた。
早く仕事にかかりたいとも言えず、すっかりぬるくなってしまったコーヒーに目を落としてみたが、瀬川は気づきそうにないようだ。
「まあな。遠藤、お前には感謝してるんだぜ」
突然、話題の矛先が僕に向けられて少々とまどった。
「僕は感謝されるようなことした覚えないぞ?」
心辺りがまるでない。僕は瀬川のために何かをした記憶はないが………
「お前が、捨てたジッポを拾うように言ってくれたから。あれを捨てずにいたから、俺は彼女とやり直せたんだよ! そうでもなきゃ、こんな恥ずかしい話を長々と聞かせねえって!!」
瀬川の肌が、みるみる真っ赤になっていく。余程恥ずかしかったんだな。
瀬川は僕に背中を向けて、聞き取れないくらいの小さな声で、
「ありがとう」
そうつぶやいた。
返事をする代わりに肩をポン、と軽く叩き、僕はマグカップを手にしたまま給湯室を後にした。


恐る恐るオフィスの扉を開いてみるとそこには予想通り、カナが満面にエミを浮かべ、仁王立ちで待っていた。
「お・は・よ・う・ございます! 珍しいですね遠藤さんが遅刻とは!」
ここは謝り倒すしかないだろう。笑顔で怒られるのは非常に怖ろしい。
素直に頭を下げて謝罪の言葉を述べようとした時、頭上からころころと笑う声がした。
「遠藤さん、暖房がついていたから、もう来てたことは知ってましたよ」
僕はカナにからかわれたらしい。
実に楽しそうに笑うカナにつられて、僕も笑ってしまった。……と、カナの笑顔が瞬時に般若の顔に変化した。
暖めておいたはずのこの部屋の温度が一段下がったかのような気配。冷気の発生源が、僕の背後に視線を向けていた。
「………瀬川さん。随分余裕の出勤ですねぇ、今日も」
これは本気だ。本気の般若だ。
外まで響く瀬川への怒号をBGMにして、僕は作業を始めることにした。いつも通りに。

 

 ――――昼の休憩。
瀬川とカナは、いつも外へ食事に行く。
僕はオフィスに一人残り、自分の手作りかコンビニで買った弁当を食べている。電話番を買って出たわけだ。
外食をすると出費が激しいので、僕は毎日快く二人を送り出していた。
ユウリと結婚したら、毎日ユウリの手作り弁当にありつけるんだな。早くそんな日が来るように、金を貯めなくては。

買っておいたパンを口に放り込んで、僕は日課のネットニュース閲覧のためにパソコンの電源を入れた。
海外に芸能、インターネットで見るニュースはその真偽はともかく情報提供の速度はダントツなので、僕はこの日課を欠かさないようにしている。
とあるニュースが、僕の目に止まった。

『本日午前5時頃、○○県××市のAさん宅で無職Bさん(27)が、姑のC容疑者(58)に階段から突き落とされ重傷、病院に運ばれましたが依然意識不明の状態が続いているそうです…』

 ありふれた、どこにでも転がっている事件。
日常のページに紛れ込んでいる、そんな一片の記事が僕の心を捕えた。
……姑が嫁を殺す。
この事件でまだ嫁に当たる人物は亡くなっていないが、姑には確実に殺意があったということだろう。
もしも、このままユウリが僕の元へ嫁いで来たとして、僕は母親を止めることはできるのか?
僕の仕事中は?
仲良くなるかもしれない、ならないかもしれない。僕は自分の母親の顔を思い浮かべた。
止まらない口。話を聞かない耳。いつでもマイペースな、僕の母親。
もしユウリと仲がよくならなかったら?彼女を傷つけるようなことをしたら?
同居しなくても、年ごとの行事や冠婚葬祭で嫌でも顔を付き合わせることになるだろう。
その全ての場所で、僕は完璧に彼女を守りきれるだろうか…?

 ニュースのページを切り替えた。
中学生の少女を複数の大学生が暴行したという事件。
……ナオヤ。
彼女がいるからといって、僕のユウリに手を出さないという保障はあるか?
ナオヤの友人が偶然出くわしたら?
………ダメだ。僕はきっと、ユウリのことを守りきれない。
彼女を取り巻くような問題は起きないかもしれない。でも、起きるかもしれない。
彼女を傷つける可能性はひとつ残らずつぶしていかなければ。

 手っ取り早くカタをつけるにはどうすればよいか。


…………殺そうか。

 

 血を分けた肉親だろうが親友だろうが、今の僕にならどんな相手だって手にかけることができるんだよ。
ユウリ、君と僕の幸せな未来のために、僕は僕の家族を殺すよ。


きっと躊躇なくできることだろう。
ユウリ、君のためになら。 

 

 

 

 

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