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 6.君の側に

 

 
目覚ましが鳴り出す前に、目が覚めた。
ゆっくりと掛け布団をめくって、そうっとベッドから右足を下ろした。続いて左足も。
確か、今日は天気がよかったはずだ。遮光カーテンを音を立てないように開く。ほら、やっぱり晴れだ。
突然僕の目に太陽の光が飛び込み、僕は眉をひそめた。眩しいことはわかっていたはずなのにな。
入力されたプログラムを忠実にこなすロボットのように、僕の毎朝は決められた手順を追っていくのだ。
ケータイを開いて、メールと電話の着信履歴を調べる。
0件。
もしかすると、メールが携帯会社のお預かりセンターに引っかかっているのかも知れない。
リクエストをかけてみたが、やはり僕宛のメールが存在することはないようだった。
昨夜、僕が送ったメールへの返信が来ていると思ったんだけど、おかしいな。
きっとまだ寝ているか、寝坊をして急いで仕度をしているのかも知れないな。
僕は、慌てふためいてバタバタしているユウリを想像して、楽しい気持ちでスーツに着替えた。

 いつも通りに右足から部屋を出て、階段を降りて洗面所へ。面倒くさいので、家族の誰にも会わないようにしよう。
鏡の中の自分と目が合い。前髪が伸びていることに気づいた。
そういえば、最近散髪に行ってなかったな。
散髪に行くよりもはるかに大切なことがあるためだが、身だしなみを整えなければ嫌われてしまうかもしれない。
まあ、彼女に限ってそれはないか。
彼女は、中学の頃に好きだった僕と再会したんだから。思い出は美化されるというもんな。
嫌われるよりも、また好かれる確率の方が高いさ。
しかし、どうしたものか。試してみたことはないが、自分で切ってみようかな。
左腕に巻いてある腕時計で時間を確認してみると、僕が家を出るまでまだ20分ほど余裕があった。
手間取ってしまったら朝食を抜けばいい。
僕は奥の部屋のタンスからスポーツタオル、工具箱から大振りのハサミを持ち出して、再度鏡に向かった。
髪の毛が襟元に入り込むと困るから、美容室でやるのと同じように、タオルを首の周囲に巻き込んでおこう。
念のために、上着も脱いでおいた方がいいよな。
注意深く、前髪を少しハサミで切り落とした。
ハサミが予想していたよりも重たくて上手く動かせなかったが、初めてにしてはなかなか順調にいっているようだ。
ある程度そろえてから、今度はハサミを縦に入れて自然な形を作ってみよう。
……上出来じゃないか。
調子に乗った僕はそのままの勢いで襟足部分を切ろうとしたが、手が滑って耳をかすってしまった。

「痛っ!!」
大きな音を立てて、ハサミを床に落下した
。危ない。背筋がゾッとした。
思わずその場から飛びのいて、ハサミによる二撃目をかわせてよかった。耳も足も怪我したら、血まみれになってしまうじゃないか。
静寂の中、僕の鼓動だけが高く響いているのを感じる。落ち着け、落ち着け。
こめかみを流れる冷や汗が気持ち悪くて、首に巻いておいたタオルの端を持ち上げてぬぐう。何か違和感が。
……タオルが濡れている?
不思議に思い、確認しようと目線を上げてギョッとした。
右の目の横から頬に向かって、朱色が汚く広がっている。
どうやら耳の傷は思ったよりも深かったようで、出血してしまったのがわかった。ポタポタと落ちる鮮血の雫が、ゆっくりとタオルを紅く染めていた。
僕はそれに気づかずに、ゴシゴシと顔に血の染み込んだタオルをこすり付けてしまったのだ。…ああ………
「………………」
ひとまずタオルの汚れていない部分を耳にあてて、ぐっと力を入れてみた。
数分そのままにして、恐る恐る離してみると血が止まったようだった。
蛇口をひねり湯を適温にして洗面台に溜め、僕の顔を覆う血の跡を、柔らかく撫で落とす。

 汚い。
ほんの数分前まで僕の身体の中を流れていたものなのに、僕は僕を汚すこの液体を激しく嫌悪した。
汚い、汚い。全て落としてしまわなければ。
頬を浄化させる指先に力がこもって行く。キレイにしなければ。
汚い汚い汚い汚い汚い汚い!
痺れるような痛みでようやく我に返った僕は、顔の右側一面が真っ赤に張れてしまっていることに気づいた。しまった。夢中になり過ぎた。時間は大丈夫かな?

洗面所に備え付けてあったキレイなタオルで、念入りに濡れた手と顔をぬぐって腕時計を確認した。
家を出るまでもう5分しかないじゃないか!
髪を梳かし、急いで上着をまとった。
もう一度鏡を見ようとして、洗面台に佇む汚れた水のことを思い出した。
鎖に繋がれた栓を抜くと、僕の血液はゆるりと渦を巻いて、流れ落ちていく。
時間がないというのに、僕は何故かそこから目を離すことが出来ないでいた。
真っ白な洗面台の表面に、うっすらと色を残している。半分以上の面積が赤黒く染まってしまったタオルでそれを拭き、ゴミ箱に叩き付けた。
僕は、一度も振り返らずに、洗面所の電気を消した。

 


家から駅までの道を、まっすぐに走り続けた。
ユウリはまだ電車に乗っていないはずだ。

あの日。
ユウリが僕の前で涙を見せたあの日。
昔、僕のことが好きだったと告白してくれたあの日の翌日から、僕は職場への往復の電車をユウリと同じ時間に合わせた。
今日でちょうど10日。
せっかくの記念日を外すわけにはいかないんだ。
赤信号を渡ろうとしたが、激しく叩きつけられたクラクションと共に横切る車に遮られてしまった。
肩で息をしていると、脇腹にじわりと痛みが広がっていくのがわかる。
歩道の信号はまだ変わりそうにない。
そういえば、メールはどうなっているだろう。ユウリは気づいている頃だろう。
ズボンのポケットから取り出して開いてみるが、何の変化もなかった。
……きっと届いていないんだな。
あの日に交換したアドレスに、僕は毎晩欠かさずメールしていた。
何を話せばいいのか最初はひどく緊張したが、今ではありふれた日常会話でいいのだと気づいた。
そういえば、日に日に長くなっていく僕のメールに対してユウリの返信が遅くなって来ているな。
仕事が忙しいのだろう、返信の回数も減ってきているようだった。
やっぱりメールよりも直接会って話した方が楽しいよな。今日、ユウリに会ったらデートに誘ってみよう。
「デート」。
その言葉に、口元がゆるんでしまうのをおさえられない。
信号が青に変わった。
ニヤついた表情のまま、僕は右足から駆け出した。
ふと、思った。
僕はいつから右足のジンクスを始めたんだっけ。
右足から踏み出したら、何が起こるんだった?
…何故か思い出せなかった。
頭の奥のほうで、もやがかかったその向こうに答えがあるはずなのに、どうしてもそこから引きずり出せない。
駅の構内にたどり着いた時、捜し求めていた後姿を見つけた。
ユウリだ!
「ユウリ!」
周囲の視線が集まるのも気にかけず、僕は大声を出した。
「ユウリ、ユウリ!」
僕の声が聞こえないのだろうか。
彼女はずんずんと先に歩いて行ってしまう。
「ユウリ、ちょっと待ってよユウリ!」
人ごみを掻き分けて、ようやく彼女を捕まえた。
「おはよう、ユウリ」
一瞬の間をおいて、彼女がゆっくりと振り向いた。
やっぱりユウリだった。
この僕がユウリと他の女を間違えるわけがないのだから。
「ああ、遠ちゃん。おはよ」
心なしか、元気がないように見える。
よほど仕事が忙しいんだな。
顔色のよくないユウリのことがとても心配になった。
「元気ないね。どうしたの?」
「……なんでもないよ。遠ちゃん、今日は別の電車に乗るのかと思ったよ」
ユウリの静かな声が、周りの騒音でかき消されてしまいそうだった。
僕は、彼女との距離をぐぐっと詰めた。
ユウリの唇がかすかに震えた。
一歩、遠ざかる彼女は照れているんだな。
「これからはずっとこの電車だよ」
ユウリが、ふっと小さく息を吐いた。
安堵のため息だろうか。僕がこれからも一緒だと思ったから。
なんて可愛いんだろう。
人目も気にせず抱きしめたくなった。
でも、まだだ。
僕からはまだ、告白を返していないから。
きちんと、僕もユウリを愛しているのだと告げてから。
僕はその辺の男たちとは違うんだ。
順を追って、じっくり確実にユウリの側へ近づいて行くんだ。
「あのね、遠ちゃん」
目を伏せたまま、ユウリが言った。
「私ね、前に話した彼と………」
電車が場内に入ると告げるアナウンスが、ユウリの声をさらった。
ホームを埋め尽くす人々に押され、ユウリは苦しそうだった。
彼女の騎士気取りで、包み込むように人々の圧力から守った。
電車が到着して、一気に乗客が僕たちごと流れ込んだ。
ユウリの表情は見えなかった。
さっきは何をいいかけたのかな。
「そういえばさ、遠ちゃん」
顔をこちらに向けぬままのユウリが呼びかけてきた。
「私のこと、名前で呼んでたっけ?」
「ん……? ああ、そういえばさっき、名前で呼んじゃったね。これからもそう呼んでいいかな」
普段から心の中では名前で呼んでいたから、つい口をついてそちらの呼び名が出てきてしまった。
女性は、異性から下の名前で呼ばれると嬉しくなるものらしいと聞いたことがある。
それが、好意の対象であるなら尚更。
ユウリは答えなかった。
揺れる電車の音が声を隠したのか、ユウリが恥ずかしさのあまり、返事につまってしまったのか。
どちらにせよ、僕はそれを肯定として受け止めた。

彼女の髪の香りが、僕の鼻をくすぐる。
彼女の頭が、僕のすぐ目の前にある。
手を少し伸ばせば、抱きしめられる距離。
これが、今の僕たち二人の距離。
ずっとこのままでいたい。
周りの人々はいない世界で。
二人きりで。
ずっと。

 

 

 
 

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