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  4.君を想う休日

 

 心地よいまどろみに包まれていた。
  僕の夢は色がない。
だから、夢の中にいても自身でそれに気付くことができるんだ

どうやら、昔通っていた中学校の階段にいるようだ。
僕の姿は当時の――10年程前の少年の頃のものに変わっていた。
降りる途中で誰かに出くわしたらしい。……誰だコイツは?
踊り場の上に開かれた窓から太陽の光が差し込んでいる。
それが逆光になって、相手の顔がわからない。
だけど夢の世界の僕は、その人に親しみを感じていたようだった。

『 間に合う? 』

その人が尋ねて来た。
「間に合うって… 何に?」
一歩踏み出して訊ねようとした瞬間、ぐらりと景色が揺れた。
ああ、危ない。階段から転げ落ちながら、気づいた。左の足が先に出ているぞ……? どうして……?



痛い。背中を床に叩き付けたのはすぐにわかった。衝撃と痛みが激しい。こんな目覚め方は初めてだ。
痛みがゆっくりと引いていく。引き換えに、足がやたらと重い。
そうだ。寝惚けた頭で、夕べのことを思い出した。
一心不乱に歩き続けて得たものが、パンパンに弾けそうに張っている両足のふくらはぎと、この疲労感だけ。
僕は何をしているのだろう………
壁にかけられた時計を見る。9時50分…
遅刻じゃないかと飛び起きかけて、足首に突き刺さるような痛みを覚え、顔を歪めた。
僕の部屋の扉が、ノックの音もなく開かれた。
「兄ちゃん、何してんの? 朝からうるさいんだけど」
酷い寝癖のついた髪の毛に手を突っ込んだナオヤが、顔をグシャグシャにして立っていた。
余程眠たいらしく、あくびが止まらないようだ。
「お前、もうこんな時間じゃないか! 大学に行く時間じゃ……」
そう言い掛けて、はたと気づいた。今日は土曜日じゃないか。
そんな僕の様子に、ナオヤはため息を一つ吐き出した。
「……寝なおす」
ふらりと部屋から出て行く弟を無言で見送る。なんだか、知らない人間みたいだ。確かに知っている顔だけど、まるで関係のない他人の背中を見ているような気持ちになってしまうのはどうしてだろう。
腹が鳴った。何か食べないとな。軽く身支度を整え、向かった台所で母親に出くわした。
洗濯物が山積みの籠を抱えている。
冷蔵庫を覗き込みたいのに、僕の背後からけたたましく声をかけて来る。この人は変わらないな。
「あらやっと起きたの? アンタが寝坊するなんて珍しいわね。パンなら戸棚に残ってるから食べなさいね、それから……」
喋りだしたら止まらない。
母親というものは、どこの家でもこうなのだろうか。
「適当にやるから、大丈夫だよ」
「そう? まあ、お兄ちゃんはナオヤと違ってしっかりしてるからね。 そうそう、お隣に頂いたリンゴも……」
諦めて、話を聞き流すことにした。
いくつになっても息子を子ども扱いしてしまうのはやめられないのだな。
いそいそとリンゴの皮をむく母の背中を見る。小さく見えるのは、歳を取ったせいかな。
久し振りに一緒に生活をするからだろうか、どこか違和感を感じる。
弟―― 母も父も、どこか他人のように思ってしまう。
いや、違う。子供の頃からだ。
友達だけではなく、家族も誰に対しても、僕はどこか冷めた目で見てしまう。
例えば周りの誰かが死んでしまった時、僕は涙を流すことができるのだろうか………




土曜日の街は、人で溢れ返っている。
こんなにたくさんの人がいるのに、ユウリだけが見つからない。
今日は目的があってここに来た。
僕の手には、ドラッグストアーのビニール袋が提げられている。
バーバリーの『ベビータッチ』。ユウリが使っていると言っていた香水だ。
可愛らしい羊のマークが目印だ。これを買うためだけに街へ出て来たのだった。まぐれでもユウリに会えればいいな。家を出てからずっと、僕は周囲を見回しながら歩いていた。すっかり癖になってしまったな。
あちこち捜し歩いて、5軒目の店でようやく見つけた時は興奮しすぎて、つい4つも買ってしまった。
男がつける匂いではない気はしたが、ユウリと共有するものが増える。
それだけの理由があれば、それは「いらないモノ」から「必要なモノ」に変わるんだ。
ひとつは僕の机に置こう。後は開封せずに仕舞っておこう。
もしかしたら、ユウリにプレゼントする日がくるかもしれないから。

ぽつん、と、額に何かが当たった。
雨だ。
空は晴れているから、天気雨というやつだろう。
本格的に降りだす前に、近くにあった喫茶店に飛び込んだ。
間一髪、すぐに雨脚が強くなり、外を歩く人々はびしょ濡れになってしまっていた。ビニール袋が無事でよかった。

 窓の外を、傘を持たずに駆けていく人々を眺めていたが、やはりユウリの姿が見えない。
虹が出るといいな。
それをユウリも同時に見ていると、もっといいな。
予定にはなかったが仕方がない、雨宿りだけというわけにはいかないので、僕は暖かいココアを注文することにした。
向かいの空いているソファにユウリが座っているのを想像してみる。
ユウリは喫茶店で何を頼むのかな。きっとミルクティーだろうな。
女の子だからケーキも頼むかもしれない。
イチゴの乗ったショートケーキか、レアチーズケーキか。
いつかデートに誘いたいな。
映画に行こうか、カラオケにでも行こうか。
僕は歌うのが苦手だけど、ユウリの歌声は聴いていたい。
きっと可愛らしい声だろう。
ユウリとの楽しい未来を考えることに夢中になっているうちに、雨はあがったようだった。
この店にもユウリはいないようだし、そろそろ帰ろう。
雲が流れ去った空には、キレイな虹が架かっていた。



いつもの駅を出て、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
雨上がりの空気はひんやりしていて清々しい。
夕暮れの迫り始めた空の青とオレンジが美しくて、まわり道をして帰ることに決めた。
こんなに気持ちのいい夕暮れに、まっすぐ帰ってしまうのは惜しい。
それに、せっかくの同じ地元での休日の今日、偶然ユウリと出会う可能性を潰してしまうのが怖かった。

緩やかに流れる川を横目に、人気のない土手を歩く。
他人の気配がない時間というものは、なんと心地よいのだろう。
僕と同じ空間を共有してもいいのはユウリだけだ。
ユウリとならば、何時間一緒にいても負担になることはないだろうな。
ふと、立ち止まって振り返る。
後方を見渡すが、誰一人歩いていない。
犬を連れて散歩している人も、ジョギングしている人も。
世界に僕一人だけ。
たった一人、僕だけが存在している。
少し前までの僕ならそれを喜んで受け入れただろう。
でも今は。
今となっては、ユウリもいなければ。
ユウリと二人きりの世界、他に誰も邪魔する者のいない世界。
最高じゃないか。まさに理想の世界だ。
彼女の笑顔をすぐ側で見続けていたい。
できることなら、一日中一緒にいたい。彼女に触れたい。
彼女の全てを僕のモノにしたい。
………会いたい。

「……遠ちゃん…?」

まさか。 まさかまさかまさかまさかまさか。
僕の歩く道の先に、ユウリが、いた。

暖かな赤に染まり始めた空を背に、ユウリが立っていた。
ユウリ、ユウリ。
僕たちはきっと運命の赤い糸で結ばれているんだね。 
彼女の元へ走る。
間近に来て、気がついた。
僕の笑顔が凍りつく。

ユウリが、泣いていた。
空では夜の青が滲み始めていた。 
虹は欠片も残っていなかった。


 

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