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  3.君に逢いたい

 

  「……ありえないだろう、こんなミス」
イラ立ちが頂点に達した。
 

「本当に…… ごめんなさい………」
か細い声で謝罪をするカナの肩が小さく震えていることに気づいたが、そんな彼女の様子も僕の怒りを増す手助けにしかならなかった。怒りの炎を焚きつけるように、瀬川が白々しいフォローにまわろうとするのも鼻につく。
「遠藤、もういいだろ? カナちゃんだってわざとじゃないんだから」
「わざとだとかそんな問題じゃない。こんな初歩的なミスは考えられないじゃないか」
「まだフォローできるレベルのことなんだから、そんなに怒らなくたっていいだろ」
「だから今、僕だってこうして手伝ってるだろう!」
普段から一度だって声を荒げたことのない僕の剣幕に、二人とも動揺しているのに気づいた。
正直なところ、僕自身もコントロールできない感情にとまどっていた。これはいつもの僕じゃない。でも止められない。ふつふつと心が煮えたぎってしまうんだ。

 カナが叫んだのは今から3時間前。もう少しで終業という時だった。
昨日の電車に乗るまでにはまだ余裕がある。ユウリの言っていた香水でも見に行ってみよう。
そんなことを考えていた僕の耳を、カナの悲鳴がつんざいた。

「やだ!! データが無い!!」

 今日のカナの担当は、書類のデータををパソコンに入力するという単純なものだけだったはず。
真っ白な顔色をしたカナの側へ、瀬川と共に急いで駆け寄る。カナはおろおろするばかりで、悪い予感が頭をもたげた。カナの横からモニターを覗きこみ確認することに。
「データがないって… 保存したファイルが違うんじゃないの?」
「パソコン内を検索しても見つからないんです! ああ、どうしよう」
「まあ、仕方ないな。遠藤、俺たちも手伝って終わらせちまおうや。な」
苦笑いで資料を手に取る瀬川を無視して、僕はカナに詰め寄った。この女は一体何をやらかしてくれたんだ?
「……白石さん、今日はずっとこの作業してたんだよね?」
「はい………」
「どこまで出来てるの?」
「どこまでって…?」
涙のたまったカナの瞳がかすかに泳いだのを、簡単に見逃すわけには行かない。
「おいおいカナちゃん、まさか最初っから消えちゃったってことないよね?」
「あの……… えっと、最初から… です……」
「ちょっと待って白石さん、今日1日分まるまるってこと!? 一度もデータ保存しなかったの?」
「………そうです。ごめんなさい」
「入力したものを消したってこと?」
「そうじゃなくて… もう終わりそうなところでパソコンがいきなりフリーズしちゃって、それで画面が真っ暗になっちゃって……

 なんてことだ。カナは朝からずっと集中して取り掛かっていた。大体、7時間分ロスしたことになる。
今から3人で頑張ったところで少なくとも2時間はかかるだろう。
その頃にはユウリは間違いなく家に着いてしまっている。同じ電車には絶対に間に合わない。
焦る僕に気づかずに、瀬川が大きな声で明るく言った。
「あ〜、ま、仕方ねえべ。すぐに始めよう。カナちゃんもさ、ほら。……遠藤?」

「……ありえないだろう、こんなミス」
――感情を抑え切れなかった。

 

 パソコンの電源を落とし、両腕を思い切り頭上に伸ばす。黙々と片付けた仕事がようやく終わった。
「遠藤さん、ありがとうございました」
申し訳なさそうにカナがコーヒーを差し出して来る。僕はカナとは絶対に目を合わせないようにして、無言でそれをひったくるようにして受け取った。奪い取った、という表現の方が正しいくらいに乱暴な振る舞いをしたのに、カナは僕に対して何も言うことはなかった。
本来なら必要の無い残業をしている間、この女はずっとしゃくりあげ続けていた。
その声を聞くたび、僕は何度も何度もこの細い首を締め付けたくなる衝動と必死に闘っていたんだ。
泣きたいのはこっちの方だよ。今日ユウリに逢えないのは、おそらく確定している。その事実がどれだけ僕の心を押し潰すのか、この女にはきっと一生わからないだろうよ。
明日は土曜日だ。少なくとも3日はユウリに逢うことができないのだ。
カナに対する憎悪が渦巻き、大きく大きく膨らんでいく。この数時間、僕の心には殺意が充満していた。

どのように殺してやろうか、そればかりが頭の中をひしめいていた。
そんなことも知らず、この馬鹿な女はノンキに話しかけてくる。
「もう、二度とこんなことがないように気をつけます。ホントに、ホントにスミマセンでした」
どんな言葉を返してやろうか。僕が口を開きかけた瞬間、出入り口のドアが叩きつけられるように開かれた。
一足先に終わらせて、一服していたはずの瀬川だった。耳がひどく赤い。
「瀬川さん、どうしたんですか?」
「……え? や、ははは。何でもない何でもない」
口先では平静を装ってはいるが、誰とも目を合わせない。
瀬川はポケットから何かを取り出し、しばらくそれを見つめていた。不意に顔を上げると、部屋の隅っこにあるゴミ箱にそれを投げ捨てて振り向いた。いつもとは違う、いびつな笑顔を作って。
「あれ? カナちゃん、遠藤だけにコーヒーあげたのー?ずるいずるーい!」
「瀬川さんにもすぐ用意しますから!」
カナが小走りに出て行く。
瀬川はゆっくり自分の椅子に座り、両手で顔を覆って黙りこくっている。瀬川らしくない。これは、さっき捨てた物が関係しているんだろうな。

 僕は、ゴミ箱を覗き込んだ。そこには、瀬川が大事にしていたジッポが落ちていた。
「おい、瀬川。このジッポ……」
「もういらねえんだよ、そんなもの」
「それはいいけど、捨てるのならちゃんと分別しろよ」
瀬川は一瞬ポカーンとした顔で僕を見つめてから、勢いよく吹き出した。
「お前なあ… どこまでマジメなんだよ」
肩を揺らして笑いながら、涙を拭いている。
どうやら僕は、瀬川の予想しなかったことを言ってしまったようだ。ひとしきり笑ってから、瀬川がぽつりと言った。
「それなあ、彼女からのプレゼントだったんだよ」
「瀬川、彼女いたのか」
「まあな。結婚も考えてた。ところがだ、別に好きな相手ができたんだってよ」
「…そうか」
「宝物だったんだけどな…… もう、戻せない。壊れちまった。いらねえから捨てちまうさ」
それは別れた彼女のことなのか、それともこの捨てられたジッポのことなんだろうか。
瀬川の言葉が、僕の胸にこびりついた。
「遠藤、今度飲みに行こうや」
「白石さんと3人でか?」
「いや、女はしばらくいいや。男同士でサシでな」
「僕に男色の趣味はないけど、それでもいいならね」
「おいおい笑わせんなよ! 俺にだって選ぶ権利はあるっつの!」
いつもの瀬川に戻っていた。いつもふざけた調子のこの男の、本当の顔がこれなんだろうな。ちゃらんぽらんな瀬川の本当の心。
「何話してたんですかあ?」
カナが瀬川のカップを手に戻ってきた。
さっきまで燃え上がっていたカナに対する憎しみの炎が、いつの間にか沈静化していた。
「ゴミの分別の話だよ」
「はいはいはいはいちゃんと分けて捨てますよ遠藤様〜っと」
瀬川はおどけるようにジッポをゴミ箱から拾い上げ、素早くポケットに滑り込ませた。
あれをまた、瀬川は捨ててしまうのだろうか、彼女との思い出と共に。

壊れた宝物は、戻せない。だから捨ててしまう―――――

 僕なら、どうするだろう。

 


時刻は21時をまわっている。完全な夜。それでも僕は走り続けた。
ユウリはきっともう家に帰っている。わかりきったことなのに、僕はユウリに逢えるわずかな可能性にしがみついていた。
もしかしたら、ユウリも残業があったかもしれない。友達と飲みに行ったかもしれない。
息を切らせて駅に飛び込む。ぐるりと見回したがユウリの姿はない。
改札を抜け、階段を1足跳びに駆け登る。ホームを確認して、ちょうど来ていた電車に乗り込んだ。
車両の先頭から最後尾までを何往復も捜し歩いたが、やはりユウリはいない。いない。どこにも、いない。
ガラス窓に映る自分の姿を見て、ふと我に返った。
疲れきった男がそこにいた。髪はボサボサ、スーツはよれて、おまけに目が血走っている。
僕はこんな姿でユウリの目の前に現れるつもりだったのか。
深呼吸をして、身なりを整える。いつもの僕らしさを取り戻す。冷静になれ。いつもの僕に戻るんだ。
同窓会でユウリに再会してからずっと、調子が狂ってしまったままだ。おかしいな……
だけど僕はそれを自覚しているから。大丈夫、世間でニュースになるような犯罪者とは違うんだ。
ふと、思い立った。
ユウリが誰か共通の友人から、僕のケータイの番号、もしくはアドレスを聞きだしてはいないだろうか?
恋愛感情までいかなくても、僕と連絡を取りたいと思ってくれたりしないだろうか。
いや、そんな都合のいい話はないだろう。だがしかし……
淡い期待に緊張しつつケータイを取り出し、おそるおそる開いてみる。履歴は残されていなかった。
もしかしたら、電車が動いているせいでメールが届かないのかもしれないよな。
電車が停車したタイミングで、メールのリクエストをかけてみた。留守番電話の転送サービスも。
僕のケータイへの、ユウリからの発信の痕跡は何一つ存在しなかった。


電車を降りて、ユウリと歩いた帰り道を一人で歩いた。
昨日はあんなに速くたどり着いたコンビニの明かりが、ずっと遠くに見える。
僕は、足を少し速めた。頬を切る風が冷たい。
道すがら、何度もケータイを開いたが履歴は依然、空のままだった。
ユウリと僕の実家との分かれ道に出た。僕は無意識に、ユウリの家の方角に足を向けていた。
逢えなくてもいいから、近くにいたい。彼女の顔が見たい。
ユウリの家は、どこだっただろう。こんなことなら卒業アルバムの名簿で確認しておけばよかった。
1軒1軒、表札を確認しながらゆっくり歩いた。しかし、『永野』という文字が見つからない。
さほど大きくないはずの住宅街が、ひどく広大に感じられた。
偶然、ユウリが窓の外に気づきはしないか。買い物忘れに気づいて出歩かないだろうか。

 ユウリは現れなかった。僕はいつまでも彷徨い歩き続けた。


 

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