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 ※ このページには残酷な表現があります 

 15.君が微笑んだから、僕は。

   

 「おはよう、えんちゃん」
僕が起こすより早く、君の明るい声が部屋に響いた。
君がここに来てから三日目の朝。
最初は何故か大声で叫んだり泣き喚いたりしていたユウリもようやく落ち着きを取り戻したようだった。
毎日あのテレビ雑誌を読んで聞かせたり愛を囁いてあげたのがよかったのかな。あの雑誌は何度も何度も読み返してふちがボロボロに破けている。興味はなかったけど、ユウリが初めて僕に勧めてくれた物だから気に入った記事は暗記できるほど読み込んだのだ。
「おはようユウリ。朝食ができたよ」
「わあい! 今日はなあに?」
「今日はね、特製のカルボナーラだよ」
「嬉しい! はやく食べよ!」
ユウリの首枷を外してあげる。もうこれも外したままでもいい頃合いかな。ふさぎこんでいた彼女もこの環境に慣れてきたらしいな。今夜は風呂場にも連れて行けそうだ。足は砕いたままなので僕の補助が必要になってしまうけれど。風呂場は少し取れない汚れがこびりついてしまっているが、なんとかなるだろう。
最近のよそよそしい態度もなりを潜め、昨夜からは僕との会話を楽しんでくれている。
ただ、一つ足りないものがあった。それは――――
「えんちゃん? どうしたの?」
明るい声のユウリ。なのにその表情が変わらない。声にはいつも通り感情が乗っているのに顔には――怒った顔も悲しい顔も困り顔も………笑顔も、全ての表情が消えてしまっていた。
僕が一番欲しいのはユウリの微笑みなのに。何かきっかけがあれば取り戻せるだろう。時間をかけてでも治してあげるからね。
「そういえばさ、ユウリ。来年のバレンタインには僕にチョコレートをくれる? 中学の時は君からのだってわからなかったから、今度はちゃんと渡して欲しいな」
「うふふ、わかったよ。約束ね」
二人だけの時間。僕とユウリ二人だけのゆったりとした理想の時間。いつまでも、それこそ永遠に続けばいい。

少なめに盛り付けたパスタをなんとか平らげてくれて安心した。今は食器を洗う僕の後のテーブルで、僕が淹れたミルクティーを味わっている。
さて、僕も一緒にテーブルにつこうかな。最後の皿を水切りの食器入れに乗せた瞬間だった。


ピンポーン―――


チャイムの音にユウリが硬直した。穏やかだった空間に緊張が走る。一体誰だ?
外の様子を映し出すモニターを覗き込むと、そこには同僚の瀬川が映っていた。おかしいな。僕は体調不良で有給扱いになっているはずなんだが、こんな時間にどうしたんだろう?
不在にしておくのは後で面倒になると思い、僕はインターフォンの受話器を手に取った。
「やあ、瀬川じゃないか。どうしたんだ? まだ就業時間だろうに」
「え? あ、ここって遠藤の家………だったのか。いや、そうそう、……ちょっと話があるんだ。開けてくれないか?」
こちらを無表情にうかがっているユウリ。足のこともあるし、彼女を見せるわけにはいかないな。
「悪いけど、まだ調子がよくないんだよ」
「至急確認して欲しい書類があるんだよ。お前の家、電話止めてるみたいだしさ。時間がないから直接来たんだよ。玄関口だけでいいからちょっと話させてくれよ」
仕事なら仕方がない。家の電話は、ケータイがつながらなくて直接家に連絡してくるナオヤの彼女がうっとうしくて止めたのだ。ユウリを養うためにも職を失うわけにはいかないからな。
「わかった。今行くからちょっと待っててくれよ」
受話器を置きざま、僕はすぐにユウリに駆け寄った。
「ちょっと玄関に出てくるよ。ちゃんとここで大人しくしててね、ユウリ」
「わかった。早く戻ってきてね」
「ユウリ」
「ん? なあにえんちゃん?」
「僕のこと、好き?」
「うふふ、だーいすき!」
僕のユウリ。僕だけのユウリ。
子供のように甘えてくるユウリの髪をくしゃくしゃと撫でて、僕は玄関に向かった。
一瞬チェーンをかけようか迷ったが、かえって不審がられるだろうと思いやめた。
鍵を開けると久し振りに見る瀬川が立っていた。どうしたのか、キョロキョロして落ち着かない様子だ。
「よ、よう。すまんな、用が済んだらすぐ帰るから」
「頼むよ。それで資料って言うのは?」
「おふくろさんいるのか?」
なんだ突然? 瀬川の視線が玄関の下部分に向けられている。……瀬川はユウリの靴を見ている!!
「母さんは親父と旅行行ってるんだよ。山にも登るってそろいのスニーカー買ってね」
「……なるほどな。それで、これなんだけど………」
瀬川がA4サイズの茶封筒を鞄から取り出した、その時―――
「遠藤、スマン!!!」
突然瀬川が僕に体当たりをしてきた。完全に油断していた僕は庭の植え込みにまともに突っ込んでしまった。
じたばたと立ち上がろうともがいている僕を尻目に、瀬川が家の中に駆け込んでいくのが見えた。畜生! 一体どういうつもりだ!
ようやく体勢を戻して僕も家に入った。瀬川の靴が置かれていない。あいつは人の家に土足で上がりこんだのか。

「ユウリ! ユウリ!!」
奥の方から瀬川の声が聞こえる。何故瀬川がユウリの名前を呼んでいる?
居間を抜け台所に入ると、ユウリの肩を必死の形相で掴んでいる瀬川と、変わらず無表情に座ったままのユウリがいた。
「おい瀬川。勝手に他人の家に上がりこむなんてどういうつもりだよ」
僕の存在に気づいた瀬川が勢い良く振り向いた。まるで炎でも湛えているかのような吊り上った目尻に、怒りで歪んだ口元。普段のへらへらとした瀬川からは想像できない顔つきをしていた。
「おっ前……!! お前! ユウリに何をした!!」
「落ち着け瀬川。まず靴を脱げ。お前の家はどうだか知らないが僕の家は土足厳禁だ」
「そんなことはどうでもいい! おいユウリ! しっかりしろよ!」
ユウリは何も言わず、ぽかんとした顔で瀬川を見つめている。
せっかくユウリが心を開いてくれて、順調になりかけたところだったのに。この馬鹿のせいで台無しじゃないか。
「とりあえず座れよ。茶でも淹れてやるから」
僕はゆったりと流しに向かった。やかんと一緒に小ぶりのフルーツナイフも手に取った。奴はユウリに夢中で気づいていない。
「茶なんか飲んでられるかよ! 今はひとまずユウリを連れて帰る! お前のことは警察に任せ…… ユウリ? お前、足が………」
瀬川がユウリの足元に気を取られて屈みこむ。僕はそのチャンスを逃さなかった。
「ぐああああああああああああっっっ!!!!!!!」
フルーツナイフが深々と瀬川の肩に突き刺さっている。本当なら背中を刺すはずだったのだが、手のひらにまだ水滴が残っていて滑ってしまったのだ。しかし、瀬川の戦力を削ぎ落とすには十分だった。
「僕のユウリに気安く触るな」
そう告げると同時に僕は瀬川の肩―――フルーツナイフの刺さっている肩を蹴り飛ばした。
瀬川は勢い良く吹っ飛びうめいている。さっきのお返しだよ。
「遠藤…… お前だったんだな、ユウリにつきまとっている男って言うのは………」
「何を言ってるのかわからないな。僕はつきまとってなんかいないよ。ユウリから向けられた好意に応えただけだよ」
……なるほど。これでつながった。どうやらユウリの元彼というのはこの瀬川らしい。
瀬川霧人。キリト、だからきーくんというわけか。ユウリは愛称で携帯電話に登録しているから気がつかなかった。しかし、どうしてここがわかったんだ?
瀬川はみっともなく這いつくばって僕をにらみつけてくる。
見苦しい男だ。以前オフィスでコイツが捨てたジッポ。あれはユウリからの贈り物だったというわけか。謝罪するユウリを冷酷にも追い出した最低な男。コイツはユウリを信頼しなかった。コイツこそ信頼するに足らない人間ではないか。
ゴミ虫のような男が汚らわしい口を開く。
「お前がユウリの同級生だったことは知ってたんだよ…… ユウリから聞いてたからな。俺と同じ会社に勤めてるっていうからすぐわかった。なかなか話す機会がなかったけど…… こんなことなら話しておけばよかった………!」
だから僕が実家に戻ることをコイツが知ってたんだな。
「最近、仕事の行きも帰りもついてきて、時間を変えてもしつこく張り付いてくる奴がいるって俺に相談して来たんだよユウリは! 返事をしなくてもメールや電話してくるってな! それがお前だったのか遠藤!! ユウリ、お前も何か言えよ!!」
「ユウリに乱暴な口をきくのはやめてくれないか。何を聞いてそう解釈したのかは知らないが、お前はもうユウリの彼氏でもなんでもない。ユウリには僕が、僕だけが必要なんだよ」
ユウリは何も言わない。ただじっと、表情を出さずに瀬川の肩を見つめている。
「!!! ユウリの足をどうした! 顔も! 痣があるぞ!」
大声を出す瀬川を眺めるユウリがようやく口を開いた。
「あなた、だあれ?」
「え………? ユウリ、お前…………」
・・・・・・  
無邪気に。本当に、子供のように無邪気に。そう。彼女は少しずつ、まさに子供のように精神が退化していた。だが僕はユウリの微笑みさえ独り占めできるのならそれでもかまわなかった。
「瀬川、お前には関係ないことだよ。それ以上うるさくするなら考えがある」
つかつかと瀬川に歩み寄り、ナイフを思い切り抜き取った。ずぶりと沈み込んだ時よりも抜く時の方が力が必要で少々苦労した。瀬川のシャツに血が広がっていく。汚い。
「ぐぅううっ! こんなことをしてただで済むと…… くっ! ユウリ、ユウリ! どうしたんだ? 俺がわからないのか、ユウリ!!」
「お前は邪魔だ。消えろ」
一閃、瀬川の顔を走った。奴の左目を通してザックリと切りつけてやったのだ。
「グガアアアアアアアアアアアアアアーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!!!!!!!!」
獣のような雄たけびだ。だがそれに重なる甲高い声が響いた。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!」
ユウリ? ユウリが目をいっぱいに開いて両手で顔を覆っている。立ち上がろうとしてガタンと倒れてしまった。
「ユウリ、怖かったね。さあ部屋へ戻ろう」
「嫌!!」
優しく差し伸べた僕の手が撥ね退けられた。どういうことだ? ユウリは僕を見ない。彼女の視線は瀬川だけに向けられている。ユウリ、君の恋人はこっちだよ。こっちを見てくれ。
「きーくん! きーくん!」
両手をついて床を這うようにして近づきあう二人。やめろ。やめてくれ。結ばれるのはお前たちじゃない! ユウリの運命の相手はこの僕だ!!
手にしていたナイフを、瀬川の放り出された左足に刺した。何度も何度も。
ナイフの柄をグリグリ廻して傷口を深くえぐる。ジュグジュグとあぶくを立てた血の飛沫がそこらじゅうを薄汚く染めていく。辺り一面に広がる血の匂い。汚い、実に汚い野郎だ。人間の皮で汚物の塊を包み込んでいるだけのガラクタ。
豆腐を切るようにすんなりとはいかないが、筋張ったふくらはぎをギチギチと切り刻むのはさほど難しいことではなかった。
奴の左足は既にグチャグチャのジャムのように変わり果てていた。たまにガチンとナイフが骨に当たるが、意外と丈夫らしく刃こぼれはしなかった。
耳に入ってくるのは二人の人間の叫び声。そして、僕の鼓動。
鼓動の音がだんだん大きくなり、他の全ての音を飲み込んでいく。もはやそれ以外の何も聞こえない。見える物も血の赤。僕の両手は瀬川の汚らしい血液で汚染されている。
コイツが! コイツさえいなくなれば!!
「やめて!!!」
気がつくと僕の腕にユウリがしがみついていた。既に足が形をなくしてしまった瀬川は気を失っているようだ。
「えんちゃんもうやめて! きーくんに酷いことしないで!!」
ボロボロと涙を流しているユウリの顔には苦悶の表情。なあんだ、こんなことで君を戻すことができたなんて。僕はゆっくりと手を降ろして、そっと優しくユウリに微笑んだ。
「………笑って」
「え……?」
「僕のために。微笑んで。ほら」

 ――――全ては、全ての始まりは、君の微笑み。
同窓会のあったあの夜、僕の夢の中で微笑んだ君。
誰かのそれによく似た君の笑顔。
君が僕だけに微笑んだから。その笑顔が僕の胸を貫いたから。
君が微笑んだから、僕は。僕は、君に恋をしたんだよ。
だから微笑んで。君の笑顔を手に入れるために僕は全てを切り捨てた。
家族も、友人も、僕自身さえも。

 ユウリの目が泳ぐ。
倒れている瀬川の上を通り、自分のぐにゃぐにゃの足。そして、僕の手に握られたフルーツナイフ。
「やだ、やだやだやだやだっ……!!」
匍匐前進のように懸命に這って僕から遠ざかろうとするユウリ。そっちにあるのは風呂場。馬鹿だな、袋小路に逃げ込むのと同じじゃないか。
中に入って鍵でもかけて篭城するつもりだったのだろう。バタン、と扉の開く音がした。
「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」
ユウリの声にならない叫び。僕は腰を抜かして動けないユウリの背後にそっと立って、静かな声で話してあげた。
「忠告しておくのを忘れていたけど、この風呂場はね、あいつらの血がこびりついてなかなかキレイにならなかったんだよ。死んだ後に切り刻んだから思ったよりは出血が少なかったんだけどね。天井まで飛ぶなんて思わなくてね。壁も浴槽も床も、血が取れないんだ」
「…あい……つら………」
「母さんと弟、あと親父だよ。僕たちの邪魔になる人間は片付けておかないとね」
顔色を失くしたユウリが僕を見る。ふふ、おかしなユウリ。
「でもさ、意外と血の匂いは目立たないだろう? 君が教えてくれたあの香水。そう、ベビータッチを振り撒いておいたからね」
消臭に使っているうちに、瓶に付けられたシールの羊はいつしか赤く染まっていた。その時僕は『レッドラム』という言葉を思い出した。『RED RUM』。逆から読むと『MURDER』。僕にぴったりだね、と一人笑ったものだ。
一瓶はここに。あと二瓶を別の場所に使ってしまったから、もう手元には一瓶しか残っていない。でも大丈夫。売っている店は見つけてあるから。気兼ねなくユウリにもつけてあげられるね。
「家族を…… 殺したの……?」
「そうだよ。それくらいのことはするさ。ユウリ。君のためにね」
「わたしの……わたしのために………」
「ユウリのために、僕は家族を殺したんだよ。嬉しいだろう? ね、ユウリ」

 何かが。何かが弾けて壊れたような音がした。そんな気がした。その瞬間、ユウリが激しく笑いだした。
「アハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!!! アーーーハハッハハハハハハハハアッハハハハアハハハ!!!!」
まるで何かが爆発したかのような勢いで。ユウリはいつまでも笑う。狂ったように笑い続ける。
でも違う、違うよ僕が望んだのはこんな下卑た笑い方ではなくて。
いくら止めても彼女に届かない。ユウリは壊れた玩具のようにただ笑い続けるだけ。
「笑うのをやめろユウリ! 僕が求めた笑顔はこれじゃない!!!! ユウリ! ユウリ!!」
肩をゆさぶっても名前を呼んでもユウリは笑うのをやめない。どうすれば……!
ふと、僕は自分がフルーツナイフを手にしたままでいることに気がついた。そうだ、これを刺せば正気に戻るかもしれない。
僕は、笑うユウリの腕にナイフを突き立てた。
「ウフフウフフフアハハハハハッハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!!!!!!!!!!!!!」
駄目だ! どうして戻らない!!
ここか? こっちか?
腕、手のひら、足、肩、どこを刺してもユウリは大笑いをやめてくれない。浴室の中で声が何重にも響いて大音響の笑い声が僕に襲い掛かる。
いつしか座り込んでいた僕の下半身はユウリの血液でぐっしょりと濡れていた。
「笑うな!! 笑うなよ!!!!!」
ユウリは壊れてしまった。もう元に戻らない。

『壊れてしまった宝物は捨ててしまえばいい』

 誰かの言った言葉が胸に浮かび上がった。誰の言った言葉だっただろう。
そうだ。壊れてしまったものは捨ててしまおう。コレはもう要らない。僕の求めるモノじゃない。
けたたましく笑うモノの胸に、僕はズブズブとナイフを沈み込ませた。刃がコツン、と骨に当たる手触りを感じるまで、深く深く突き刺した。
あまりに力を込めたものだから僕の手のひらまで切れてしまったが不思議と痛みは感じなかった。
ごとん、と、何かが落ちた。目の前のモノが倒れて床にぶつかった音だった。
気がつくと笑い声は止まっていた。
真っ赤だ。ここは赤の世界だ。
僕も、壊れた人形も、この空間もなにもかも。
――――そうだ。
新しい宝物を探しに行かないと。
僕だけに微笑みをくれる、大切な宝物を。
微笑んで。僕だけのために微笑んでくれ。僕に優しくして。僕を、僕だけを愛して。
ふらふらと立ち上がり、僕はそこを出た。
通りがかった部屋の途中に誰かが倒れているが、知らない。興味がない。
車の鍵を引き出しから取り出し、右の足から家を出る。まっすぐ前に眼を向ける。背筋が伸びるように。
着の身着のまま僕はガレージに出た。エンジンをかけて発信する。
さて、どこへ行こうかな。
もう何も考えたくない。
僕は、強くアクセルを踏みつけた――――――――― 

 

 

 

 

 

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