コンコン。軽いノックをした。
「どうぞ」
部屋の中からの返事を待って、アタシは病室のドアを開けた。
「カナちゃん、今日も来てくれたの? ありがとうね」
真っ白で清潔な空間のベッドに横たわる瀬川さんが細く笑う。
切断された左足が痛々しい。顔に巻かれた包帯の下、彼の左目はもう見えない。
何よりもひどく傷跡が残ったのは、彼の心。恋人と友人と自信の未来を同時に失ってしまった彼を私は毎日お見舞いに来て支えてあげている。
「義足ができたら、一緒にリハビリ頑張りましょうね」
「ありがとう、頼りにしてるよ」
弱弱しいけれど、瀬川さんは最近になってようやく笑えるようになった。
あの事件から―――
職場の先輩だった遠藤さんが起こした、大量殺人と瀬川さんへの殺人未遂。
当時瀬川さんと交際していた永野さんという女性と、遠藤さんの家族が遠藤さんの手によって殺害されたのだ。
永野さんは遠藤さんの家の浴室でメッタ刺しの状態で発見された。
遠藤さんの家族はバラバラに刻まれて他県の山に捨てられていた。弟さんとお父さんの身体は野犬によって荒らされていたのに、お母さんの身体だけは見晴らしのいい場所に埋められ花が添えられていたそうだ。何故そんな区別をしたのか今となっては誰にもわからない。
あれから二ヶ月、ニュースで毎日騒がれていたこの事件もようやく下火になって、アタシたちの周囲を煙たいマスコミがうろつかなくなっていた。
瀬川さんは、永野さんからのメールで駆けつけたらしい。
最初は単なる一方的なお別れのメールに思えたその文面が、よく読むと縦書きに「助けて」と書かれていたのだ。
瀬川さんがそれに気づいたのはメールが来た翌々日だった。携帯電話を物憂げにいじっていた瀬川さんが突然立ち上がっってオフィスを飛び出したのだ。
永野さんの携帯電話についているGPSの機能で探し当てた場所が、まさしく遠藤さんの自宅だったというわけだ。
この事件はアタシたち周囲の人間に多大なショックを残した。その傷跡は今でも人々に苦しみを与え続けている。
そして、遠藤さん本人は車で失踪したまま未だ見つかっていない。生きているのか、死んでいるのかそれすらわかっていない。
でも――――
正直、アタシは遠藤さんを恨んではいない。むしろ感謝しているかもしれない。
確かに仕事の面では物凄く大変だけど、代わりに得たものがある。
瀬川さん。
ずっと振り向いてくれなかった。
遠藤さんには渡していたお土産、後でこっそり二人きりの時に渡した時のあなたの顔が可愛くて大好き。
何度も恋愛相談したのに気づいてくれない、鈍感な人。
私とのやりとりの履歴を残した方がいいなんてアドバイスで永野さんを疑心暗鬼にさせたり、丁度電話中に謝りに来た永野さんを追い返すよう言ったり、ゆっくり別れさせる方向に持っていくのが大変だった。それなのにヨリが戻ってしまってアタシはとても焦ったのを覚えている。
そんな時に起こったこの事件。
確かに瀬川さんには衝撃が大きすぎる事件だと思う。でも、きっと大丈夫。
アタシがずっとそばについててあげる。それに、わかってた。瀬川さんの本当の気持ち。
アタシが下らないミスをして迷惑をかけた時、アタシをかばってくれた。温厚な遠藤さんがあんなに怒り狂っていたのにね。
あなたがヨリを戻したって電話をしていた時、あたし盗み聞きしてしまった。あの日は一日中イライラがおさまらなかったけど、もう許してあげる。
いつもいつもアタシにちょっかいかけて、アタシのこと「好き」って言ってくれてたもの。
お昼もいつもアタシと一緒に二人きりで食べてくれた。アタシのこと、本当に愛してくれてるってわかっていたわ。
アタシも大好きよ瀬川さん。
あなたが、アタシに微笑んでくれた、あの時から…………ね、霧人さん―――――
―― 完 ――