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 12.君を思い出した

 

  
夢を見た。
君が僕に微笑む。いつものように。だけど、どこか寂しそうな瞳をしているのは何故?
僕が一歩足を伸ばすと君が遠ざかってしまう。ああ、そうだ。左足だからだ。右足から踏み進めば、ほら。君がもう目の前に。
……泣いているの? 微笑んでいるはずの君の目尻から一筋の涙がこぼれ落ちた。
君の名を呼ぼうとしたのに声が出ない。何度も何度も呼びかけるのに僕の声は君に届かない。
抱きしめたい。
そう思ったとき、君が両手を広げた。
そうだね、僕と君は通じ合っているんだ。言葉なんかなくたって解りあえるんだよね。僕の気持ちと君の気持ちは同じ。
僕の指先が彼女の頬に触れた途端、何故か冷たい感触が肌を突き刺した。これは、この体温はまるで母さんの―――――

 母さん?

 母さん、お母さんはどこ?
辺り一面が雪原よりも白、ただただただ白一色に覆われている。僕の夢には色がついたことがないのに、初めてはっきりと色を認識できる。
全てが白で塗りつぶされている。吐く息も白く、何もかもが色を失くしたようだ。小さくなった僕の手のひらだけが真っ赤に染まっている。
赤。血の色の赤。
寒いよお母さん。手を…… 手をつないでいて。かじかんで動かない。見たくない血の色が目に焼きついて離れない。助けて………
ぐらりと倒れかけた僕の身体を、誰かがふわりと優しく抱きとめてくれた。

「間に合う?」
どこかで聞いた声。
見上げるとそこには彼女がいた。中学の頃の制服を着て、あの頃の髪型で。そして徐々に身体全体が当時のそれへと変わっていく。
「まだ間に合うかな」
気がつくと僕は学校の階段にいた。逆光を背に向かい合っているのは彼女。二人とも中学生の姿で。
「ボタン……」
「ボタン? 永野、ボタンがどうしたの?」
「第二ボタン、ください!!」
パッと顔をあげた彼女が大きな声で早口に言った。
返事を待つ彼女が階段の下の段から僕を見上げている。更に下の方では心配そうに様子をうかがうミカもいた。ミカは何故か大人の姿のままだった。
「もう、誰かが予約しちゃった?」
これは中学三年の卒業式の記憶だ。ずっと忘れていた。どうして今まで忘れていたんだろう。
恥ずかしそうにしながらも、まっすぐに僕を見つめる彼女。そんなことは初めてだったから僕は激しく動揺したんだ。
「えっ……えっと……予約は誰もしてない…けど……その…」
彼女が僕を好きだったなんて知らなかった。全く気づいていなかった。特に好きな相手がいたわけでもなかったが、どうすればいいのかわからなかった。そして―――
「うわあっ!!!」
彼女の顔をもう少し近くで見たくなり一歩右足を踏み出した瞬間、僕はバランスを崩して階段から足を踏み外してしまった。彼女を巻き込んで。
背中に強い衝撃を受けた。無意識に彼女を庇おうとして床に打ち付けてしまったらしい。動けない程の痛みが背中を貫き息もままならない。しばらくしてようやく落ち着いた僕は、すぐ間近に彼女の気配を感じた。
両方の瞳にいっぱい涙を浮かべて僕をのぞきこんでいる。
「永野…… 大丈夫?」
ゆっくり起き上がろうとする僕を支えながら彼女が微笑んでくれた。
「平気。ごめんね、えんちゃん。痛かったでしょ?」
「僕の方こそごめん。いきなりぶつかっちゃって」
彼女の手が僕の手に重なっていた。暖かい。十年ぶりに感じた人の温もり。ああ、こんなに暖かなものだったっけ。

 目が覚めた。真っ暗な部屋。枕元に置いたケータイに手を伸ばし時間を確かめる。5:42。起きるには少し早すぎるが寝直すには微妙な時間だ。
のそりと起き上がり、部屋の電気を点けた。
今までずっと忘れていた昔の記憶。夢に見たことで思い出すことが出来た。
だが僕の記憶はここで途切れている。ボタンをどうしたのか思い出せない。制服は弟にあげてしまって、その後捨ててしまったはずだから確認することはできない。
母や弟に聞くことも出来ない。
別々の高校へ行った彼女とは卒業後会うことはなかった。同窓会で再会するまでは。
次に思い出せたのは…… 自慰の記憶。
初めて意識した他人の温もりと笑顔。その二つを思い出しては自慰にふけっていた。身近な人物を対象にしたのも初めてだった。でもそんな自分が急に恥ずかしくなって、僕はそれをいつしかやめてしまった。
そして深く恥じ入った僕は、階段での出来事からまるごと記憶の奥底に封印してしまったのだった。
ちゃんと返事をしておけばよかった。一人で虚しい思いをせずに、彼女の気持ちを受け止めておけばよかった。
でも、僕は間に合った。数年の隔たりを越えて再会して、やっと彼女に愛を返すことが出来たんだ。
無駄にしてしまった時間はこれから取り戻していけばいい。彼女を独り占めして、僕を独り占めさせて。
そうだ。独り占めだ。
そうしよう。夕べの彼女は何か迷っている様子だった。僕の愛情を試すなんてこともしていたようだし。
きっと、二人きりで過ごす時間が必要だったに違いない。しばらく二人きりでいれば、彼女の不安を吹き飛ばしてしまえるだろう。善は急げだ。今日にでも彼女をここに連れて来よう。二人きりになることのできるこの家に。
僕は張り切って階下に駆け下りた。彼女を迎える準備をしておかなくては。
洗面所に飛び込み戸棚からビンを取り出す。バーバリーのベビータッチ。これを家中いたる所にふりかけた。トイレや玄関、すみずみまでが彼女と同じ香りになるように。
さあ忙しくなってきたぞ。予定より少し早いけど、今日から二人きりの生活が始まるんだ。
鼓動が激しくなる。頬が紅潮しているのが鏡を見なくてもわかる。早く早く、もう今すぐにでも迎えに行きたい。
緊張が全身に走り、手足の指先が冷たくなっていく感覚を覚える。叫びだしたくなる衝動が芽生えたことなんかなかったのに。
時計の針が僕の気持ちとは裏腹にゆっくりと時を刻む。出勤にはまだまだ時間がある。
僕は二本目の香水ビンの箱を開けた。



仕事を早退して、僕は何時間も地元の駅で彼女を待った。突然の残業を避けるために。
どちらにせよ、今日は丸一日集中出来なかったんだ。珍しく瀬川も落ち着かない様子だったな。オフィスはいつになくピリピリした空気が漂っていた。でもそんなことはどうでもいい。僕にとって重要なことは、彼女を家に連れ帰ること。それだけなんだ。
普段の何倍も時間が経つのが遅く感じられる。もし僕が喫煙家だったなら僕の足元にはおびただしい量の吸殻が山積みになっていたに違いない。
数え切れない程の自らのため息に埋もれそうになったその時、僕の目が彼女の姿を捕えた。彼女も同じタイミングで僕に気づいた。ほら、僕たちは通じ合っているね。
「ユウリ!」
人ごみを掻き分けて彼女の手首を掴んだ。暖かな肌。
「お帰り、ユウリ」
「えんちゃん……」
また目をそらそうとした彼女は何かを思い直したのか、視線を改めて僕に向けた。
「えんちゃん。今日は大事な話があるの。できれば二人きりで」
通じ合っている。確かに通じ合っているよ。僕たちの考えることはこんなにも同じなんだね。嬉しさに跳ね回りたくなるよ。
「僕も大事な話があるんだ。それじゃ、僕の家に行こうか。他に誰もいないからゆっくり話せるよ」
一瞬何かを考えた彼女は少し沈黙してからはっきりと僕に告げた。
「うん、お邪魔する。このまままっすぐ寄らせてもらうね」

……ああ………楽しみだ。楽しみだよ。本当に楽しみで楽しみ過ぎて死んでしまいそうだよ。
君の不安が消えてしまうまで、ずっと二人でいよう。
ね、ユウリ………―――――
 


 

 


 

 

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