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 ※ このページには残酷な表現があります

 9.君の笑顔

 

 部屋の中いっぱいにむせかえるような鉄の匂いが溢れている。人間というものは、悪臭を放つ汚水のつまった水風船のような物だったんだな。
足元に転がる『モノ』。これの処分はどうしようか。階下でそれと知らずに順番を待つ『女』を片付けてからまとめてどうにかしよう。
だらしなくグシャグシャに敷かれたシーツをベッドから剥ぎ取り汚れた包丁をぬぐったが、完璧に綺麗にはならなかった。そういえば魚を調理した時に流水で包丁についた血を流そうとした時もダメだったな。後で洗った方がよさそうだ。
電気を点けたまま部屋を出た。いつもの僕なら考えられないことだが、今はどうしてかそのまま明るくしておきたい。これは僕なりの弔いの気遣いなのだろうか。それとも暗い部屋で横たわる『モノ』の元へ戻るのは気が滅入ると予想したからかもしれない。自分では判断つかなかった。
廊下に踏み出した左足の裏からぐしょりと液体が広がるいやな感触を受けて、自分の履いている靴下がぐじゅぐじゅに血を吸い込んでしまっていることに気づいた。一刻も速く脱いでしまわないと自分の全身まで血が染み込んでしまいそうで、靴下の乾いた部分をつまんで勢いよく脱ぐ。部屋に広がる血だまりのほうへ投げつけて少し後悔した。後で血で汚れた靴下をつまみあげるのは僕自身なのに考えなしだったな。
先ほどのシーツで足を拭き、自分の赤黒い足跡を踏まないように気をつけながら部屋を出て一息ついた。まだまだやることはたくさんあるじゃないか。

音を立てないように階段を降りていると何か話し声が聞こえた。『女』が風呂からあがって電話をしているんだな。居間に入る木の扉から少し距離を置いて、電話が終わるのを待とう。いつも長電話をしている『女』には珍しく、通話はすぐに終わってしまった。
よし、行こう。僕はドアノブに手をかけた。

 

 

 「きゃっ!」
驚いた。向こうも同時に扉を開けたのだ。
驚いたのは僕だけではなかった。それはそうだろう。暗い玄関付近で音もなく二階から降りてきた息子。その身体が返り血で赤く汚れていたのだから。
「お、お兄ちゃん! どうしたの? 怪我したの!?」
心配そうに僕に伸ばした手を『女』が寸前で止める。僕の手に握られた物に目を止めていた。
「お兄ちゃん……? あなた、どうしてそんな…………」
僕は何も言わず、にっこりと笑顔を向けた。動揺しすぎた『女』もつられて微笑んだ。久し振りに見る、この微笑み――― この笑顔を、僕はどこかで見たことがある。どこで? 誰の笑顔―――――?
頭の中では記憶をたどりながら、僕は風を切るように右腕を素早く動かした。
『女』は笑顔を張り付かせたままゆっくりと僕にもたれかかってきた。左の乳房の少し下の辺りに深々と包丁が突き刺さっている。毎日自分が使っている包丁。それを突き立てたのは彼女が生み育てた実の息子。『女』の人生はひどい裏切りで締めくくられたな。そんなことを考えながら、僕は左手を包丁に添えて更に力をこめた。

「お前…… 何してるんだ……?」
僕の背後で突然声がした。
――しまった! 『男』が帰って来たのだ。玄関には鍵がかかっていなかったので、ドアを開ける音に気づかなかったのだ。
ドアから漏れる外灯の明かりが逆光になって、『男』の表情は見えない。『男』は手にしていた鞄をどさりと地面に落とした。
「あさ……え………?」
ゆらりと一歩一歩近づいてくる『男』を目にして、僕の心臓が早鐘を打つ。何故だ? 足もすくんでしまって動かない。僕は怯えているのか? こんな年老いた『男』に?
「たった今……電話で…… 今、家に着くって、話を………」
ぶつぶつとつぶやきながら『男』が土足のまま上がってきた。両目は『女』を捕えて離さない。突然その目がギラリと僕をねめつけた。
「離れろ」
「……え?」
「俺の麻枝から離れろおおおおおおおおおおお!!!!!!」
細く枯れた身体のどこにこんな力を隠していたのかと思うような恐ろしい力で、僕は床に叩きつけられた。『男』は『女』の髪を優しくなでながら、『女』の名を呼び続けている。
やるなら今か。構えようとした僕は、包丁が『女』の胸に刺さったままであることに気づいた。どうする? 一瞬の躊躇がまずかった。手元を探っている間に『男』の顔が僕の鼻の先に来ていた。
「お前のことは…… 殺しておけばよかった……… お前が、生まれた瞬間に!!!」
両手が僕の首に食い込み、ぐいぐいと締め付けられていく。『男』の手首に深く爪を立てても微動だにしない。予想もしない展開と『男』の存在への畏怖が僕にまともな抵抗をさせてくれない。息が…… できない……… 頭が耳が喉が………!



ふ…… と、僕の脳裏に幼い頃の記憶が甦る。あれはいつのことだったか。
幼稚園に入る前か。遠い遠い記憶。
僕は『男』に、『お父さん』に激しく殴られていた。何が彼をそこまで怒らせたのか、今ではわかる。
その日は僕の誕生日。お母さんが僕に手作りのケーキを作ってくれた。暇さえあればお母さんにくっついていたお父さんも、この日は僕の頭をなでてくれるお母さんから少し離れて僕たちを見守っていた。そう、思っていた。
お母さんのお腹の中にはこれから生まれる赤ちゃんがいて、一緒にお祝いをしていたのだった。事件がおきたのはその日の夜。
両親の寝室とは離れた自室で一人眠っていた僕は、強い衝撃に起こされた。頭のてっぺんがひどく痛んだことを思い出す。
お父さんは、黙って僕の布団の横に座っていた。手は硬く握られ、その表情は能面のようになんの感情も映し出してはいなかった。
「お父さん……? どうし……」
言い終わらぬうちに、僕のお腹を激しく思い痛みが貫いた。お腹の真ん中には、大きな拳がめり込んでいた。
「……………」
真顔のお父さんが、小さく何かをつぶやいている。
「…俺のものだ…… 俺だけのものだ…… それなのに、この…… 糞餓鬼が……!」
もう一度、お腹を殴りつけられた。僕は胃の中のものをもどしそうになった。
「俺の麻枝に触るな。近づくな。麻枝の笑顔は俺だけに向けられていればいいんだ。お前なんかが微笑まれるんじゃない。……いいか? 俺の麻枝に近づいてみろ。今度は………殺してやる」
まっすぐ僕の目を見据えて言った。今目の前にある、狂気を孕んだ燃えるような双眸。
枕に吐血してしまった僕に汚物を見るような蔑んだ視線を残し、その枕を嫌そうに取り上げ立ち去ったお父さん。
あの赤い色が脳裏に焼きついて離れないんだ。
お母さんに生き写しな弟には決して手をあげることのない、それどころか溺愛していたお父さん。
楽しそうにしている三人と、それを離れた場所から見ていた僕。
僕は、僕は………
 

 もう、あの頃の小さな子供ではないんだよ―――――?

 渾身の力を振り絞り、『男』の腹を蹴り飛ばした。体重の軽い『男』は思ったよりも吹っ飛び、『女』の死体にぶつかった。
僕は必死で肺に空気を送り込み、なんとか体勢を整えることに専念した。
四つんばいになって激しく咳き込む男の傍らに立ち、ボールを蹴るようにその腹をもう一度蹴り上げた。何度も、何度も。
僕はきっと、あの時の『男』と同じ顔をしていることだろう。自分にそっくりな息子を一人の男性としてとらえ、嫉妬に狂って虐待したあの顔と。
こいつのせいで、僕はあの日から誰にも心を許せなくなったんだ。お母さんの微笑みすら背を向けてきた。こいつのせいで。こいつの狂気のせいで。
死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。死ね。
『男』が動かなくなっても、僕の足は止まらない。ビキッと音を立てて、僕の右足に鋭い痛みが走るまで。
普段はそんな動きをしていなかった右足の抵抗か。僕は足を抱え込んでその場にうずくまった。しばらくそのままでいたが、『男』が起き上がる様子はない。しかし、念の為だ。『女』の胸に刺さった包丁を力いっぱい抜き取り、それを男の背中のど真ん中に突き立てた。『男』はぴくりともしない。
………終わった?
ふいに、『女』の顔が目に入った。
ああ、どうしてなんだ。『女』は、微笑んでいた。

どうして。どうして。お母さん、どうして笑っているの? 殺されたのに。痛かったはずなのに。苦しかったはずなのに。どうして?
僕が目をそむけ続けた微笑み。本当は、いつもいつも欲しくてたまらなかった微笑みを、どうして死の瞬間に僕にくれたの?
ゆっくりと、しかし確実に体温を失っていく身体に触れてみる。ああ、何年ぶりだろう。お母さん、お母さん。鼓動の止まった血まみれの胸に顔をうずめた僕の頬を、何かが一筋つたっていった。
僕は、泣いていた。後悔はしていない。でも、涙はとめどなく流れていた。
もう一度見つめたお母さんの笑顔が、何かと重なって見える。この、微笑み。……そうか。ユウリの微笑みだ。この笑顔が、ユウリのそれとそっくりなのだ。ユウリ、君の笑顔に。
泣いている場合じゃない。ユウリ、君をここに迎え入れるための準備が始まったよ。過去は要らない。ユウリのことを思う気持ちが膨らんできた。さあ、後始末だ。
背筋をまっすぐに立ち上がり、玄関の鍵をかける。まずは『これら』を浴室に運ばなければ。

 
あれだけ嫌悪していた血が全身にまとわりついても僕は作業を続けた。辛くなるたびにユウリの笑顔を思い出せば、それが活力になった。
洗面所に二体、浴室内に一体運び入れて、それをできるだけ小さく切り分ける作業に取り掛かっていた。骨も切断するために、家の中から入れるガレージからノコギリを持ち出して使用する。刃物はほんの数回だけで黄色い脂がこびりついて使えなくなってしまう。その都度浴槽のお湯に浸して血と脂をぬぐう、この繰り返しだ。
小さく見えた身体は思ったよりも僕を手間取らせ、一体を解体した頃にはもう明け方になっているようだった。
休憩がてら朝6時になるのを待ち、カナに電話をかけて体調不良で欠勤することを告げた。疲れ切っていた僕の声は演技をするまでもなくカナに心配させることに成功したようだった。
あと二体を解体して洗ったら、次はどうしようか。袋に入れて山にでも捨てに行けばいいかな。ここより遠く離れた場所がいい。その後は、部屋と玄関、それとこの浴室の掃除だ。ユウリが来た時のために、うんと綺麗にしなければ。
そうだ。部屋に染み付いた血の匂いには、ユウリも使っている香水をふりまこう。バーバリーのベビータッチ。きっと彼女はすぐに気がついてくれるだろうな。
今日は会えないんだ。寂しい想いをさせてごめんね、ユウリ。
肘から指先まで真っ赤になった僕の指が、ユウリへの謝罪のメールを入力する。
もう、僕たちを邪魔する奴らはいなくなったから。いつでも僕のところへおいで。
ね、ユウリ……………――――――――


 

 

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