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 1.君に、逢えた。

 

 最初の一歩は右足から。笑顔のままで、まっすぐに眼を見て話を。
ポリシーというわけではないが僕はいつもそれを心掛けている。それだけで、毎日背筋が伸びる気がするんだ。
カーテンを開けると、部屋の中が朝の光で満ち溢れる。また一日が始まる。

 僕は、扉を開けて踏み出した。もちろん、右の足を。

「遠藤さん、おはようございます!」

朝日が差し込む静かなオフィス。軽く掃除をして、席に着いた僕の頭上に軽やかな声が降って来た。
振り向くまでもなく誰だか判る。毎朝恒例の彼女からの挨拶だ。
「白石さん、おはよう」
口の端を持ち上げて、彼女――白石カナに答えた。カナは毎日、元気に明るい挨拶をしてくれる。
子犬のように懐いてくれる、言わば妹のような存在だ。

心の中ではいつも名前で呼びかけるが、なかなか態度に出すことが出来ないでいる。
「あの、これ!」
両手に大事そうに抱えていた包みを勢いよく僕に差し出すこの仕草は、まるでバレンタインのチョコレートを手渡す女の子みたいだな。そう思うと自然と笑みがこぼれてしまった。
「これ、どうぞ!お土産です!」
「白石さん、何処か旅行に行って来たの?」
カナの顔がほころぶ。
「連休を使って実家に帰ってたんですよ。せっかくなので地元で有名なお菓子をお土産にと思って」
「ありがとう。頂くよ」 

 確かカナは北海道出身と言っていた。
帰省のたびに持ってきてくれる菓子がいつも違っていて、カナの気遣いが感じられて嬉しくなる。
次は何を持ってきてくれるのか、楽しみだな。
前回は白だか黒だか恋人がどうだかいう名前のチョコレートの挟まれたクッキーだった。これは何だろう。

「遠藤、何ニヤけてんだよ」

悪友でもある、同僚の瀬川が横から口を挟んで来た。
いつも遅刻ギリギリのコイツは、息も切らせずに悠々とオフィスに入ってきた。
「お前ほどニヤけた奴に言われたくないよ」 
一瞬僕ににやりと笑みを残し、遠藤はカナの肩に軽く手を乗せた。
「カナちゃん、何それ?俺にもくれるのー?」
カナの手にしている箱に目ざとく気付く。彼女は慌てて首を横に振った。
「これは遠藤さん だ け に買って来たんです!瀬川さんの分は無いですー!」
「も〜、ムキになっちゃって。カナちゃんは可愛いなあ」
笑顔で逃げ回るカナを、目尻を下げっぱなしの遠藤がふらふらと追いかける。
 カナが目線で僕に助けを求めるが、面白いので僕は気が付かないフリを続けて楽しんだ。
「瀬川さん、セクハラで訴えますよ!」
口を尖らせるカナの後を、情け無い表情で瀬川が追い掛け回す様子は滑稽だった。
「ちょぉっとカナちゃぁん」

いつものこのくだらないやりとりに安心する。
少人数のこの会社では、数名のチームに別れて作業をしている。

この二人と僕、三人だけの気軽なチームに振り分けられていて、軽口を叩きあいながら楽しく過ごせるこの環境が好きだった。

追いかけっこに飽きたのか、二人ともそれぞれ自分の席に着き、周囲を片付けながらパソコンの電源を入れた。
この二人の切り替えの速さには毎回感動さえ覚える。
「実家と言えば」
書類とパソコンの画面を行き来する目線を外さずに瀬川が言った。
「遠藤、お前実家に帰ったんだって?」
あれ? 何故瀬川が知ってるんだろう。誰かに話したか記憶を探ったが思い出せない。
まあ、何かのついでで耳にはさんだのだろう。
「先月からね。楽させてもらってるよ」

実際、洗濯や食器の片付けをしてくれる人の存在は有難かった。
実家のありがたみは、一人暮らしをして始めて解る。
「おうちの方に何かあったんですか?」
カナもカタカタとキーボードに叩きつける手を休めずに問い掛けて来る、日常の風景。僕たちはいつだって、会話を続けながら作業をする。飽きないし、時間が経つのも速く感じられるのが利点だ。
外部の人間からは、僕たちはどう映るのだろうかはわからないが、実績は残しているので今のところ誰からも文句が来ていないのがその答えだろうな。
「そういうわけじゃないよ。欲しいモノがあってさ、金を貯めるには実家から通勤した方が都合がいいからね」
これは本音だった。僕にはどうしても手に入れたいモノがある。どうしても。
「欲しいモノって何だよ。家か?」
「車ですか?」
放っといたらコイツらはいつまでも当てっこゲームを続けるに違いない。まだ他人に教える段階まで来ていないので、僕は欲しいものを隠し通すことにした。きっと笑われてしまうから。
「秘密だよ」
「秘密ってお前……あ、そっか。カナちゃんの前では言えないようなモノなんだろ!」
「瀬川さん、やらしい」
小学生のような瀬川への切り返しはカナに任せておく。朝からこのテンションは流石にキツイ。
僕はしばらく黙って,傍観者に徹することに決めた。
「カナちゃん騙されてるって! コイツみたいな一見大人しそうな男に限ってムッツリなんだって!
きっとエロイことばっかり考えてんだぜ!」
「瀬川さんじゃあるまいし……」
「やだカナちゃん!そんな目で俺のこと見てたの!? キリト悲しいっ!」
「瀬川さんそんないじけたって、ちっとも可愛くないですよ」
「カナちゃんの毒舌は今日も冴えてるなあ。俺もう病みつきだよぉ」

そろそろ瀬川が気持ち悪い。この辺で止めておこうか。
「…瀬川も白石さんも、そろそろ真面目に仕事しろよ」
「はぁ〜い」
二人で声をそろえた。なんだかんだ言っても、この二人は仲がいいんだよな。気も合うみたいだし付き合ってしまえばいいのにと薄く笑いながら、僕は欲しくて欲しくてしかたないもののことを考えていた。



「暗くなるのが早くなって来たなあ」
今日の仕事も一段落がつき、コーヒーを片手に瀬川がブラインドの隙間を覗いている。
「寒くなってきましたもんね」
床をモップ掛けしながらカナがうなずく。帰りの掃除はカナが自発的にしてくれている。
3人しかいない狭いオフィスなので、あっという間に終わってしまうわけだがとてもありがたい。たまには代わってあげようとも思うのだが、気がつけばカナが手早く仕上げてしまうので未だに手伝うことも出来ずにいるのが申し訳なかった。
カナの手からモップを受け取り、瀬川がしまう。
後は僕が棚に鍵をかけて終了だ。
「カナちゃん、暗くなると危ないから、俺が送ってあげるよ」
瀬川は日課のようにカナに言う。カナの答えも大体変わらない。
僕の予想するカナの声が現実のそれと重なった。
「そんな時間じゃないですよ」
「じゃあメシ食っていこうよ。俺おごっちゃうよ?」
毎回断られているのに瀬川は必ず引き下がる。マニュアルでもあるのか?
今日のカナは、珍しく僕に話を振ってきた。
「遠藤さんも一緒ならいいですよ」
「僕はパス。寄るとこあるから今度ね」
僕は瀬川の口元が緩んだのを見逃さなかった。
考えていることが顔に出るにも程があるだろう。本当に、男というものは正直に出来ているんだよな。
瀬川の企みに感づいたのか、カナが声を荒げた。
「ええ〜! それじゃあアタシも帰りますよ」
「カナちゃんそれ差別じゃなあい?」
瀬川が口をとがらせるが、もちろん可愛くない。
「普段の行いのせいですよ。」
「つれないわぁ〜。だけどそんなところも 好・き!」
ついつい僕も口をはさんでしまう。
「白石さん、セクハラで訴訟する時は証言してあげるからね。」
「はい!その時はよろしく!」
「そんなあ〜」
情け無い声を出しながら瀬川がしょげ返る。僕はそれを尻目に鞄を手に取った。
「じゃあ、また明日。」
まだ楽しげにやりあう二人を残して部屋を後にした。右足から。


揺れる電車の壁に肩を預け、流れ行く見慣れた風景をぼんやりと眺める。またここに……昔住んでいた、この土地に帰って来ることになるとは思わなかった。
壁にもたれていた背中を離して少し向きを変え、車両内をゆっくりと見回す。帰宅ラッシュの時間ではあったが、知った顔はそこにない。ふう、と小さく口からため息が落ちた。

改札を抜けて、ケータイを開く。メールが1件。
『帰りに牛乳買ってきてね 母』
簡単な返信をして、閉じたケータイを上着のポケットにすべり込ませる。踏み出した足の先に、空き缶が落ちていた。それを拾い上げ、ゴミ箱を探した。
仕方ない、とりあえずこのまま持ち歩くしかないな。片手に空き缶をぶら下げて、歩き出した。

ふわふわとくすぐるような笑い声が聞こえた。
「遠ちゃん、相変わらずマジメだね。」
「永野。」
ほんの少し離れた所に、彼女がいた。
永野ユウリ。中学の同級生だ。心から楽しそうな彼女が、ゆっくりと僕の側へ来た。
「同じ電車だったみたいだね。」
「そうだね。いつもこの電車に乗ってるの?」
自然な感じで僕の横に並ぶ。先日あった同窓会でもそうだった。
「そうだよー。遠ちゃん、この駅で降り立ってコトは実家に帰って来たの?」
「先月からね。この間の同窓会の少し後くらいからだよ。」
「おっ?どうしたの?ホームシックになっちゃったのかな?」
イタズラっ子のように笑うユウリがとても可愛い。
僕もつられて笑顔になった。
「違う違う、欲しいものがあってさ。」
「なるほどねー、それなら実家が便利だもんね。じゃあ、これからは帰りが一緒になること多いかもね。」
「かもね。よろしくね。」
「こちらこそよろしくね!」
少しだけ傾けた首筋からサラリと柔らかそうな髪が流れた。自分の鼓動が速くなるのが感じられた。かすかに優しい匂いがする。
「香水つけてる?」
「え?ああ、ちょっとだけね。バーバリーのベビータッチっていう香水。友達にもらったんだよ。ちょっと子供っぽい香りかな?」
「そんなことないよ。いい匂いだね。」
「へへっ。遠ちゃんに褒められちゃった。」
僕はユウリに気付かれないように、静かに深く、この匂いを吸い込んだ。

道沿いにコンビニが見えた。そういえばオツカイを頼まれていたんだった。
「僕、ちょっとそこに寄ってくね。」
「私も行くよ。雑誌の発売日なんだ。」
頬がゆるんでしまうのを止められない。自動ではないガラスの扉を開き、先に通るように彼女を促した瞬間、彼女の周囲を漂う心地よい香りが、ふわりと僕を包み込んだ。鼻をくすぐる匂いを胸いっぱいに吸い込んだ。何と言う名前だったか。『バーバリーのベビータッチ』・・・。僕は、忘れないよう心に刻み付けた。

「これこれ!」
薄いテレビ雑誌を手に、ユウリが振り返る。
「これ面白いの!遠ちゃん知ってる?」
「いや・・知らないなあ。買ってみようかな。」
「オススメだよ、一回読んでみて!テレビ雑誌なんだけど、コラムとか読み物が面白いから。」
「うん。」
ユウリと同じものが持てるなんて。買わないわけがないじゃないか。
大事に胸に抱え、レジへと向かう。牛乳も忘れずに。支払いを済ませて店を出て、彼女を待った。
もしユウリと付き合うか、結婚したら… こんな毎日があるのかと想像してしまった。悪くないなんてもんじゃない、最高じゃないか。

「お待たせー!それ、今度感想聞かせてね?合わなかったらごめん、先に謝っとくね。」
「そんなこと気にしないでよ。感想言わなきゃいけないなら、ちゃんと目を通さなきゃいけないな。」
「ページのすみっこまでネタがいっぱいだからね。あ。それじゃあ、ここでバイバイだね。」
いつの間にか、分かれ道まで来ていた。もう少し一緒にいたかったけど、うまく引き止める言葉が見つからなかった。 
「じゃあ、また。」
彼女の後姿が見えなくなるまで、ずっと見送った。ユウリは一度も振り返らなかったのが、少し残念だった。手にしたビニール袋の中。彼女と同じ。ユウリのお気に入りの雑誌。
今日は何ていい日だったんだろう。期待していた。会えたらいいなって。本当に会えた。
ユウリは、僕が地元に帰って来たことをどう思っているのかな。きっと、嬉しく思ってくれているはず。だって彼女は微笑んでくれたんだ。

………僕の、夢の中で――――――

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